哲学のプロムナード(ΦωΦ)黒猫堂

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【ネタバレあり】倉野憲比古『墓地裏の家』感想・解説

 

どうも、らきむぼんです。

この記事では、ネタバレありで倉野憲比古さんの第2長編『墓地裏の家』 の感想・解説をしたいと思います。

この記事の内容は動画でも観ることができます。

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ネタバレなしの紹介記事と、作者の倉野憲比古さんについての記事はこちらから。

x0raki.hatenablog.com

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【ネタバレあり】倉野憲比古『墓地裏の家』感想・解説

*『スノウブラインド』のネタバレを含みます

東京・雑司ヶ谷霊園の裏に教会を構える神霊壽血教。教主・印南(いんなみ)尊血の様子がおかしいとの相談を受け、心理学を学ぶ大学院生・夷戸武比古は教会を訪れる。あらゆる用事を放り出して、ひたすら観覧車に憑かれた教主に、密室で変死する教主の娘。吸血神ストリゴイを崇拝する小さな宗教団体に、精神分析的で挑む。

というこれまた本格を匂わすミステリ。もちろんその実は変格ミステリ
前作に続いて、推理合戦と心理学の衒学趣味が炸裂してそこが一つの見所だ。個人的にはもっと衒学衒学していても良かったのだが、たぶん一般的にはこれがいい塩梅で、そのあたりは倉野さんの作家としての力量を感じるな、と思う。

そういう意味でも今作は前作より奇書っぽさは抑え、ミステリ的な面白さが増えた作品だった。
面白いのは、青さんがブログで語っていたけれど、街をゆく夷戸が霊園を超えてまさに異界に踏み込む冒頭。現実から一挙に怪奇の世界に入る感じが楽しい。

吸血鬼は招かれないと家に入れないと言うが、まさか逆に心理学の専門家(まだマスターではないが)を招いてしまうとはなかなか皮肉。

さて、本作では終始「自殺か自殺教唆か他殺か」という議論が続き、そこに夷戸が心理学の知識を披露、根津は映画知識を披露する、という内容で、前作が楽しめた人には問題なく楽しめる構成。
一族の「自殺の呪い」もなかなか怪奇味が増して良い。実際のところ何が真実なのかわからないのもいい。作中で語られる説として、自殺が頻発する場所があるとき、その場所が取り壊されたらピタリと自殺が止まったなんて話もあり、科学的な分析がされているのが面白い。

心理学的な分析が披露される一方で、神霊壽血教をめぐる因縁の歴史は、年月の重みとともに怪奇性を高めており、乱歩作品のような不気味さを感じさせる。
それが科学だけではなくオカルトの介在も予感させ、最終的なリドルストーリーの布石にもなっている。

夷戸、根津、美菜のトリオも凄い良くて、倉野さんはこういう悪友たちの掛け合いみたいなものがすごくうまい。夷戸の奥手で子どものような淡い恋心もなんとも言えない青春感を醸し出しているが、それが告白したら元男でした、というのもまた良い。このあたりの展開は見え見えなのにそれに至るまでの夷戸の振り回され加減なんかは、楽しい一幕だなと思う。

本作の夷戸はスノブラの夷戸とは別人の可能性もあるが(教授の頭の中なので笑)、それも書き分けているのが地味に凄い。倉野さんは文章がうまい方だと思っているが、夷戸のキャラクターが微妙に異なるのは創作者の立場からするとかなり難しい技術だと思う。
本作の夷戸は人間味が増してすこし愛嬌があるように映るだろう。

そしてこの三人が全員違った解釈をするエピローグも面白い。これはある種のリドルストーリーで、読者がどれをとっても良いようになっているのが良い仕掛けだと思う。一応の探偵役である夷戸の解釈が解決のように描写されているが、オカルトエンドでも、謎は謎のままエンドでも、納得性がある。

さて、ミステリ的構造についても少し。
まずは「信頼できない語り手」としての夷戸がミステリファンとしては面白い。本作では、夷戸が第一の事件で目撃者として証言をするがそれが間違っているという「本格では」苦笑されそうなシーンがあるが、これは心理学ミステリであり変格ミステリである本作では、そこまで反則の感はない。細部まで配慮された心理学的な裏付けや物語の演出さは、この本格の文脈では成立しない謎の解明に説得力を持たせている。ただの勘違いではなく、心理学的な錯誤であるから、面白いのだ。
さらにこの証言の危うさは、結末のリドルのような解釈の幅にもつながる。

ちなみに夷戸の不確かな感覚は「幻嗅」という形で描写されてもいる。
以下引用。

美盤の部屋は閉め切っていたせいか蒸し暑く、夷戸の気のせいかもしれないが、未だ微かに血の臭いが漂っているように思えた。これが幻嗅というやつなのだろう。夷戸は、自分の頭が時々わからなくなる。現実と非現実の境が曖昧になるように思われるのだ。今日この時も、彼は自分の知覚に疑いの目を向けざるを得なかった。

これは5秒ではなく一瞬だった、血は見ていなかったというような証言の怪しさの伏線としてちゃんと描写がある。この描写があるからこそ、夷戸の感覚の危うさに説明がついている。
このあたりもしっかりと心理学的説明があるのが嬉しいところ。

そして前作でもそうだが、夷戸の解決は「了解」という独特の形式。これは解釈であり、前作で言われている通り「=探偵の解決≠真相」という構造を踏まえたもの。
これも作中では非常に印象的な一文がある。

今までの僕のすべての解釈は、なんの物的証拠もありません。状況から了解した、純粋な解釈の産物です。だから、あなたが反論すれば、すべて崩れるという──

堂々とこう作中で表記しているのもある意味新しい。
倉野さんの作品の面白いところは証拠を提示しないことで、ミステリをミステリたらしめる、逆説的な新感覚のミステリであり、これこそが新変格の流儀の一つなのかなと思う。

謎が円環するのは証拠で確定しないからであり、それは本格ではできないミステリの在り方。
でもだからこそそれを「証拠はない」と一蹴して、十分に面白い設定と構成なのがやはり見事だ。

 

 

 

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