哲学のプロムナード(ΦωΦ)黒猫堂

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【ネタバレあり】倉野憲比古『スノウブラインド』感想・解説

どうも、らきむぼんです。

この記事では、ネタバレありで倉野憲比古さんのデビュー作『スノウブラインド』 の感想・解説をしたいと思います。

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ネタバレなしの紹介記事と、作者の倉野憲比古さんについての記事はこちらから。

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【ネタバレあり】倉野憲比古『スノウブラインド』感想・解説

不気味な伝承の残る土地に血塗られた歴史のある館。ドイツ現代史の権威ホーエンハイム教授の邸宅、通称「蝙蝠館」に招待されたゼミ生達は、吹雪で外に出られない状況で、殺人事件に巻き込まれる。
……と、本格も本格、これ以上ないほどの本格ミステリ的ギミックの応酬で、中盤まではまさに古き良きミステリを読んでいると錯覚するが、中盤以降の徐々に崩れていく現実味と、姿を現す超常的現象を契機に本格は変格に反転していく。

この反転の振り幅が楽しい。まるで落下しているのか浮遊しているのか判らないような、自由落下中の無重力のような感覚を味わうことができる。それはクローズドサークルのような本格ギミックだけでなくて、衒学趣味や推理合戦のようなミステリの面白さが、ミステリに慣れ親しんだ読者のツボを押さえていて、読み手が慣れた舞台だからこそ、それが崩れていく違和感の肥大化が目に見えて解かる。

たとえば悪魔憑きなどが起き始めた時点で「あれ、様子がおかしいな(笑)」と思うだろう。
終いには空中浮遊などをするので、そういった本格では本来タブーである領域に踏み込む描写が、トリックなどによる錯覚ではなく「事実」として描かれ始める違和感が、本来の本格ミステリの枠を超えた瞬間に言い得ぬ「変格」としての快感に変わる。

「ここまでは何か現実的なトリックで説明できるかも……これはどうかな……ギリギリいけるかな…………あっ超えた」というような、本格の土俵で説明ができなくなる瞬間がどうにも愛おしい。

具体的には時間遡行がその最たるもので、ある意味そこが本格が終りを迎える瞬間、本格が垣根を超えて変格に切り替わる瞬間で、変格ミステリを愛するものとしては「待ってました」の大興奮なシーンだったと思う。

三大奇書に通じる衒学趣味と酩酊感は、僕のような、その筋の愛好家には大好物だろう。作中でも夢野久作の『ドグラ・マグラ』や小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』に触れており、明確に三大奇書を意識している。『虚無への供物』に否定的な立場を取る人物が登場するのも非常にそれっぽい演出で、実際に『ドグラ・マグラ』と『黒死館殺人事件』を二大奇書的に位置付け、特別視する立場の人もいる。

特に初期乱歩や夢野久作へのオマージュ感は重厚な演出として舞台を作り上げている。……が、実は倉野さんがこのあたりの小説が好きらしいので、ここはそういった影響と趣味が出ているポイントなのかなとも思う。こういったところが作者の持ち味や趣味が良い意味で主張してきて作品の味になっていて好印象。ましてや、倉野先生をTwitterなどで知っているからこその親近感や日常の発言などと結びついて、正しい評価の仕方かどうかは別として、面白いなと思う。作家がSNSで近い距離にいるからこその新しい読書の楽しみ方として、そういった一面があってもいいんじゃないかと思わせる部分がある。

フロイト精神分析が物語の非常に大きなポイントとして扱われている点も好きな点だった。しかもそれがナチス魔女裁判にまで関連するとは面白い。魔女についての知識や今や古文書と言っていい『魔女に与える鉄槌』(作中では『魔女の槌』)なんかにも言及する主人公がなかなかいい。これは魔女について調べたことがある人なら(ほぼいないと思うが笑)一度は目にしたことがある書名だ。

稀覯本に興奮して冷静さを失うあたりはこれを読んでいるミステリファンたちにも通ずるものがあるだろう。飛鳥部勝則などなど、見つけたら興奮するミステリは数多にある。元々はこの『スノウブラインド』だってそういった稀覯本の一つだったのだ。

そして個人的な話だが、古典心理学や精神分析学、魔女にも興味があって初歩的な知識は持っていたので非常に楽しめた。中学くらいの時に出会っていたら、夷戸を目指して心理学をやっていたかもしれない(笑)

夷戸がid(イド)を元ネタにしていることに気付ける程度の浅い知識だけれど、ないよりは役立つものだ、と思ったりする。ちなみに舞城王太郎が脚本を務めるアニメの『id:INVADED イド:インヴェイデッド』もこのイドから取ったであろうタイトルで、内容はまさしく心理学のそれである。

ちなみにボロが出そうなので深くは語れないが、フロイトによる精神分析学の構造論では、イド―自我―超自我という心的構造があり、イドは人間の精神において衝動・本能を司る部分とされている。

心理学的な要素はこのシリーズの楽しい部分の一つであると言えるし、倉野さん自身の独自性の高い分野とも言えるので、今後のシリーズでも度々触れることになる。

さてキャラクターで言えば、ホラー映画を時々紹介してくる根津も魅力的だ。なかなかいい趣味だなとニヤリとする。残念ながらさほど詳しくないので詳細な元ネタは拾えていないけれど、これも倉野さんの普段のツイートなんかを見ていると、書いてて楽しかったに違いないと思う。

倉野さんは文章も非常にうまく、リズムが心地よい。
地の文のわかりやすさは衒学趣味とは相性がよく、小難しいことを大量に語る本作ではわかりやすさとリズムが強力な助けになっている。
そして、掛け合いの描写も非常に良いので、頭脳派と直感派の登場人物がうまく会話しているのが魅力だ。
夷戸と根津はまさにその代表的なキャラクターたちだろう。

トリックについても実はかなり面白い。発売当初はこの辺をクローズアップしすぎて、いまいち読んで欲しい層に届いていなかった感はあるが、それがトリックの質の低さに繋がっているわけではなくて、トリックの質自体はかなり良い。二つの叙述トリックは巧妙だし、そのうちのホーエンハイム教授の性別誤認の叙述トリックは動機やその後の展開に深く関わっていて、叙述トリックに頼り切ったミステリでは決してない。
秀美についても、さらりと情報開示してしまう潔さは脱帽する。本質をそこに置いておらず、読者にサプライズを仕掛ける起爆剤の一つとして効果的に演出していると言えるだろう。

ミステリとしての見方としては、構造論的にも面白い部分がある。
本書から特徴的な部分を引用する。

すべてのものは原初の形態、つまり無機物へと回帰する。探偵小説においては、解決篇というかりそめの緊張低減ではなく、本来の状態──〝未解決のままの渾沌とした謎〟という地点まで大きく戻らなければ、ウソだと思う。この世界は、いつだってわけのわからない謎また謎に充ち満ちているんだからね。すべての有機体が、本来の無機的状態に回帰する基本傾向、これを涅槃原則と言って、フロイトによると死の本能はこの原則に従っているんだ。

人間の手によって産み出された探偵小説も、ひとつの芸術的有機体としての生命を持つならば、謎から解決へと直線的に進むのではなく、さっきも言ったように、謎からまた謎へと円還しなければならない。これが探偵小説にあるべき、究極の涅槃原則だよ。すべてが直線的に進まねばならないというのは、近代的思考の誤謬以外の何ものでもないよ

このあたりの探偵小説への考え方は共感する人も多いはず。これが『スノウブラインド』でやりたかったことなのではないだろうか?
まさに竹本健治の『匣の中の失楽』や麻耶雄嵩の『夏と冬の奏鳴曲』などがそうだが、謎と謎の円環こそがミステリの本質というのは面白い考え方で、同時に本書でまさにメタ的な構造と時間遡行を組み合わせてこれをやっているのが凄い。
夷戸に語らせたミステリの本質論は、作者によってメタ的にこの作品自体に持ち込まれている。
僕がこの作品が好きなのはこういった洒落た美しい構造に魅力を感じたからでもある。

さらに、倉野ミステリにおける「推理」や「解決」は非常に面白い独自性を持っている。
これも引用になるが、作中で夷戸はこう語る。

これは僕の所信表明なんだ。こういった考え方は、探偵小説にも通じるんじゃないかと思うんだ。つまりだ、探偵小説における推理というのは、探偵が構築するひとつの物語に過ぎない、ってね。小栗虫太郎が創造した探偵法水麟太郎は、乱歩的に言えば、怪奇心理学・怪奇薬物学・怪奇医学などを駆使して、事件を推理していくわけだ。だが、法水の推理が正しいという保証はどこにある?主観一辺倒のトンデモナイ推理だよ。怪奇な諸学問に通じた法水が、己の該博な知識を犯罪へと投入して事件を了解し、ひとつの解釈を導き出したに過ぎない。おそらく、異なる人物が黒死館事件を推理すれば、違った〝真相〟を見出し、違った犯人を挙げていただろう。かといって、法水の推理が間違いだってことじゃない。まさに探偵の推理とは、分析場面でのセラピストの解釈という物語と同じように、犯罪を了解し、事件を再構成するための、ひとつの物語に過ぎないのさ。で、要するに、僕も今から探偵役を務めるわけだけど、僕は自分の持つ知識から導きだされた仮定を投入して、この一連の事件に了解操作を行ってみたって言いたいんだ

これは、狙ってかどうかは微妙だが「後期クイーン的問題」の一つの解決かもしれない。解決というよりは解釈のずらしなのだが、このずらしこそ、「変格」ということなのではないだろうか。
本格の呪縛である「探偵の答が真実であると作中の論理では証明できない(黒幕の存在を否定できない)」という問題に対して、夷戸はそもそも真実を提示しない。

倉野ミステリにはロジックミステリに不可欠な「証拠」に関する要素がいい塩梅で欠けている。しかし決して作者の力量不足で言及されないわけではない。あえての証拠の少なさが、推理合戦を混迷させ、同時に読者に対しても解釈の幅と謎の余地を広げている。
夷戸は一人の解釈者であり、了解操作をしたに過ぎない。それは主観であり、一つの物語である。
それは、このミステリがいわゆる「夢オチ」であってもそれ自体に意味があることであるという証明であるし、これを読む読者の切り取った物語がひとつずつ価値のある解釈であるということだ。
それが許されていて、倉野さんのミステリでは決してタブーではない。

個人的には、エピローグで語られる「本当の蝙蝠館での惨劇の顛末」の中にすら未解決の謎を仕込むあたりはめちゃくちゃ好みで、もはやこの無限構造の観測者として永遠にこの作品を読み続けたいほど。あえてやらなくてもいい要素のはずだが、それをやってしまうのが大好きなところ。

物語の前半は吹雪の館と奇妙な住人、そして起こる殺人事件、とオーソドックスな古典ミステリの体裁を取る。しかし次第に歪み始める世界観は読者を「浮遊」させる。読者の違和感はなかなか正体を掴ませない。結末はトリックと物語がしっかり有機的に結びついているので、唐突な終わり方には感じない。物語全体に施された技巧と構成美は、切り捨て難い引っかかりとなって読後も心を騒つかせる。

僕は自分自身でも創作をする。そのときに決めているのは、自分の読みたいものを書くということ。だから、僕は好きな小説を思い浮かべるときに自分の作品も浮かぶ。自分の好きなものを自分の技術を最大限使って書くから。
そういう創作感覚でいるからこそ、自分が書きたいけど技術的に今はまだ書けないというプロの作品に出会ったときに感動する。例えば『匣の中の失楽』とか『眩暈を愛して夢を見よ』とか。
そして『スノウブラインド』はまさにそういう作品だ。
自分の作風の延長線上で、やりたいことをやってくれた紛れもないプロの作品がこの新変格ミステリだ。

 

 

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