哲学のプロムナード(ΦωΦ)黒猫堂

推理小説やSFのレビュー・書評・ネタバレ解説・考察などをやっています。時々創作小説の広報や近況報告もします。

【ネタバレあり】倉野憲比古『弔い月の下にて』感想・解説

 

どうも、らきむぼんです。

この記事では、ネタバレありで倉野憲比古さんの10年ぶりの最新作『弔い月の下にて』 の感想・解説をしたいと思います。

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【ネタバレあり】倉野憲比古『弔い月の下にて』感想・解説


心理学を学ぶ大学院生の夷戸憲比古、ホラー雑誌編集者の根津圭太、二人が通う喫茶店のマスター羽賀美奈の三人は、旅行で訪れた壱岐で、好奇心から怪談じみた噂を残す弔月島(ちょうげつとう)に足を運ぶ。かつて隠れ切支丹達が住まい、独自の形でその宗教を残すその島には、奇妙な館が立ち、近づいた三人は館の住人によって軟禁されてしまう。そこには同じく軟禁された先客がおり、彼らにはそれぞれ島の主人との因縁があるらしい……

と今回も本格のガジェット盛々の舞台だが、もちろんただの本格ではない。
そこには怪奇幻想の気配が立ち込め、当然変格への転換が待っている。
本格のガジェットから変格ミステリへの変貌という型の三作目にして、もっとも入りやすい倉野ミステリ入門の一冊といえる作品だ。

ただし、実は今回は変格の色は前二作と比べてやや薄いといえる。
その分、怪奇性が強く、江戸川乱歩のような雰囲気がある。
古き良き本格と、本邦のミステリの先祖ともいえる乱歩の怪奇性がうまく融合した作品で、前二作よりもある種「真っ当なミステリ」として評価できる作品だろう。
個人的には「倉野さんがすげー本格っぽいミステリ書いてる!」と勝手に盛り上がってしまった(笑)

好みとしては『スノウブラインド』のような変格の色が濃いものが好みだが、しかし再デビューの一作としては決して悪くない、まさに「本作は変格探偵小説なのか? はたまた異形の本格なのか?」という倉野さんの言葉通りの議論渦巻く作品かと思う。

個人的な結論としては、これは異形の本格であり、変格の域に振り切った作品ではないと思うが、変格の要素が全く存在しない作品ではない。
変格ミステリ」の入門とは言えるだけの要素は持ち併せているだろう。

一方で、読了後に僕が感じた最も強い印象は、「これで倉野ミステリの型は定まった」というものだった。本作までの三作で、倉野ミステリというジャンルは確立されたように思え、それは実は夷戸シリーズの型であるかもしれないが、いずれにせよ僕なりの倉野さんに書いてほしい要素はしっかり今回も回収されている。

それは僕の中で三つに集約される。
①本格のガジェットからの変格への転換
②心理学の薀蓄を語ることで、心理学的なオチや解釈を補強する
③「了解操作」によって、リドルストーリー的な要素、回帰する謎という選択肢を残す

これらがしっかり描かれているからこそ、安心して楽しめているし、変格から本格に寄っても変わらず楽しい作品だったといえる。

今回は前にも増して本格のガジェットが強力で、もはや新本格の世代では登場しなくなっているような伝統的なものも登場する。
孤島と奇妙な館、闇深い一族、捻れた宗教、怪人、そして顔のない屍体というトリック。

そこからのお馴染みの「推理」ではない「了解」という手順を用いた、いわば「了解合戦」が行われるのは見事で面白い。今回については根津も冒頭で精神分析手な解釈を行っていたりと、どちらかというと根津がオカルト担当から探偵志向のキャラクターに寄っており、語り手的な意味でもワトソン的なポジションを取ることが多かったように感じた。

ちなみに本作ではこの「了解」への説明がほぼなく、登場人物たちの背景(墓地裏で生まれた関係性)の説明もない。これはシリーズであれば省略できる部分であるとは思うが、一方で、本作が倉野さんの10年ぶりの作品であることを鑑みると、少々説明不足で、初見の読者がピンときていないのではないかというきらいがある。
入りやすい入門的な意味での難解さの省略と捉えられるか、あるいは、どういう経緯で集まった人でどういう性格の人でどんな思考をする人なのかわからないと思われてしまうかは諸刃であるなとも思う。

もちろんこの辺りを事前に知っているシリーズ読者にとってはなんの問題もないのだけれど。
むしろ意味深な、夷戸の心象風景(過去の女性キャラクターや母親が登場するシーン)などはどういった狙いがあったのがご本人に聞いてみたいような気もしてしまう。
これはシリーズならではの惹きの強さかなと思う。
逆にここから入った人達の感想も気になるところ。

さて、感想がやや無軌道になってしまっているが、真相(解釈)についてもやはりこのシリーズならではの要素がある。
最終的な夷戸の了解で、曽我も石崎も自殺で落としていいのは、この作風だからこそ。
ミステリを裏切るミステリとしての構造こそが変格であり「倉野ミステリ」。
心理学を真相格に持ってこれるのは心理学の衒学趣味があるからこそ。
心理学の説明がなされ、それで物語が解釈されることを是とする雰囲気があるからこそ、本格では避けられるものにも深みが出る。

前作まででもそうだが、倉野さんのミステリにはほとんど証拠が出てこない。
それは解釈の幅を作り出し、そしてその解釈が真実であることを求めていないミステリだからだ。
だからこそ、今回は夷戸が最初の了解操作に失敗する。
証拠や「本人による言」が出てきたときに、夷戸の物語は簡単に無に帰してしまう。
それが描かれたのも、シリーズを追ってきた読者には少し嬉しい。

そして夷戸というキャラクターの造形がしっかりと根を張っているのも、嬉しい部分だ。
『スノウブラインド』での夷戸は(根津もだが)少々人間味が薄い温かみのないキャラクターのように読者には映る。これは『スノウブラインド』作中での事情もあり、しっかり理由があるのだが。
そして『墓地裏の家』ではその部分は和らいでおり、夷戸の人間的な部分が垣間見える。
彼の苦悩は俗っぽい部分がしっかりあって、やはり一人の若者だ。
それが今作でもよく現れており、そして彼の心理学を学ぶものとしての流儀も表明されている。
印象的なのは了解によって、人を救おうとするシーンだ。
彼はみんなが傷つかないようにするために、真相が「自殺でも他殺でもない」という了解を行った。
それは否定されてしまったが、東條からは感謝されている。
こういった面からも、夷戸が真相を追求する探偵ではなく、心理学を学び、人を救う道を歩んでいることがわかる。
ここまで来ると愛着のあるキャラでもあるので、このちょっとした成長が少し嬉しく感じてしまう(笑)

夷戸について言えば、さらに前作を補強するような描写もある。

幻視、幻嗅、幻触と、何かの拍子に様々な幻覚を自らに引き寄せるのが、夷戸に備わった一種の特殊な才能だった。それは精神の平衡がいまひとつ保たれていない、ということの証左となるのかもしれなかったが。自己の内面の闇を解明したい――そういう動機も異常心理学を専攻することを選んだ理由のひとつだった。

これは前作の幻嗅を補強する。夷戸は元来そういった素養があって、それが異常心理学を専攻することを選んだ理由にもなっているというのは面白い設定だ。
また、了解操作における「異常心理学を理解して行動や思考をトレースする」という行為も、この幻覚を引き寄せる能力によるものだとも考えられ、夷戸の設定の深みは増しただろう。

夷戸については今回かなり掘り下げられていて、実はかなり気になっている。
心象風景のなかで登場した母親も意味深だ。
それに夢の中の女が言った「……の世界へようこそ」という言葉も。
このシリーズが予定通りの四季四部作だとしたらこういった話に進展はあるのだろうか?
気になるところは多い。

登場人物に関しては、先に語ったとおり、やや根津や美奈の描写は弱い。
彼らのキャラ造形はぜひぜひもっと掘り下げてほしいなと個人的には思う。
しかし、それでも下手に感じないのはさすがだ。
彼らの背景がやや薄いのに対し、今回はゲストキャラである他の登場人物や、回想に登場する個人やエピソードがあまりに面白い。
それぞれが抱える闇や病理が、よく描かれていて、かなり濃い内容になっている。
そして彼らがそれぞれ話し合う掛け合いの上手さはやはり健在だった。
都合よくみんなが語りたくないことを語るある意味ご都合主義的な展開なのだが、それを感じさせない上手さがある。
愛憎のバランスがよく、良い意味で本格によくある人工的だが色濃い人間模様がしっかり描かれている。

特に凄まじかったのは伊留満の描写だろう。
どこをとっても気持ち悪い(笑)
このゾクッとする人物描写が最高だなと思う。

さて、最終章の「オカルト」説にも触れておきたい。
シリーズお決まりのリドル的、選択的結末だが、これも面白い内容だった。
今回は変格に寄りきらなかったのが逆に印象的だ。
というのも、最後のオカルト的な解釈は、抜け穴という本格のロジックを使っている。
本格のロジックを用いて変格の落とし方をするのは、ある意味ではどっち付かずの面もある。
やはり今回は変格か異形の本格か、というテーマがそうさせたのかもしれない。

むしろ、変格的に見て最高だと思ったのは、その前段階の「屍蝋」だった。
屍蝋が、一挙に崩壊する、その描写があまりに素晴らしい。

僕としてはやはりこういった変格の「どうしようもなく不条理で、説明のつかない何か」を感じさせる展開のほうが好みなのかもしれない。
あの描写があるからこそ、夷戸の了解だけではすべてを説明できないんだなと思う。

そして最後に、シリーズとしての期待とラストシーンについて。
僕が印象的だったのは、最後の夷戸の反省ともいえる言葉だ。
夷戸は今回、最後の可能性に至って、「敗北感」を覚えている。
これは今までになかったことだし、なにか続編へのフックなのではないかとどうしても思わせる。

自分には何も見えていなかったのか? 賢しら人である自分には闇黒の深淵は見通せないのか? などと自分を見つめる夷戸は「わからない」と言葉にして、この物語は終わる。
このラストシーンは印象的で夷戸の挫折を思わせる。

これも踏まえて僕は4部作の最後が見てみたい、とやはり強く思う。
倉野さんの次作が刊行されるかはわからないけれど、やはり『スノウブラインド』と『墓地裏の家』を読み終えたあとと同じように「次が読みたい」と思わされる。
そして「新変格」の最前線で活躍する夷戸たちに、やはり期待してしまうのだ。

 

 

【ネタバレあり】倉野憲比古『墓地裏の家』感想・解説

 

どうも、らきむぼんです。

この記事では、ネタバレありで倉野憲比古さんの第2長編『墓地裏の家』 の感想・解説をしたいと思います。

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【ネタバレあり】倉野憲比古『墓地裏の家』感想・解説

*『スノウブラインド』のネタバレを含みます

東京・雑司ヶ谷霊園の裏に教会を構える神霊壽血教。教主・印南(いんなみ)尊血の様子がおかしいとの相談を受け、心理学を学ぶ大学院生・夷戸武比古は教会を訪れる。あらゆる用事を放り出して、ひたすら観覧車に憑かれた教主に、密室で変死する教主の娘。吸血神ストリゴイを崇拝する小さな宗教団体に、精神分析的で挑む。

というこれまた本格を匂わすミステリ。もちろんその実は変格ミステリ
前作に続いて、推理合戦と心理学の衒学趣味が炸裂してそこが一つの見所だ。個人的にはもっと衒学衒学していても良かったのだが、たぶん一般的にはこれがいい塩梅で、そのあたりは倉野さんの作家としての力量を感じるな、と思う。

そういう意味でも今作は前作より奇書っぽさは抑え、ミステリ的な面白さが増えた作品だった。
面白いのは、青さんがブログで語っていたけれど、街をゆく夷戸が霊園を超えてまさに異界に踏み込む冒頭。現実から一挙に怪奇の世界に入る感じが楽しい。

吸血鬼は招かれないと家に入れないと言うが、まさか逆に心理学の専門家(まだマスターではないが)を招いてしまうとはなかなか皮肉。

さて、本作では終始「自殺か自殺教唆か他殺か」という議論が続き、そこに夷戸が心理学の知識を披露、根津は映画知識を披露する、という内容で、前作が楽しめた人には問題なく楽しめる構成。
一族の「自殺の呪い」もなかなか怪奇味が増して良い。実際のところ何が真実なのかわからないのもいい。作中で語られる説として、自殺が頻発する場所があるとき、その場所が取り壊されたらピタリと自殺が止まったなんて話もあり、科学的な分析がされているのが面白い。

心理学的な分析が披露される一方で、神霊壽血教をめぐる因縁の歴史は、年月の重みとともに怪奇性を高めており、乱歩作品のような不気味さを感じさせる。
それが科学だけではなくオカルトの介在も予感させ、最終的なリドルストーリーの布石にもなっている。

夷戸、根津、美菜のトリオも凄い良くて、倉野さんはこういう悪友たちの掛け合いみたいなものがすごくうまい。夷戸の奥手で子どものような淡い恋心もなんとも言えない青春感を醸し出しているが、それが告白したら元男でした、というのもまた良い。このあたりの展開は見え見えなのにそれに至るまでの夷戸の振り回され加減なんかは、楽しい一幕だなと思う。

本作の夷戸はスノブラの夷戸とは別人の可能性もあるが(教授の頭の中なので笑)、それも書き分けているのが地味に凄い。倉野さんは文章がうまい方だと思っているが、夷戸のキャラクターが微妙に異なるのは創作者の立場からするとかなり難しい技術だと思う。
本作の夷戸は人間味が増してすこし愛嬌があるように映るだろう。

そしてこの三人が全員違った解釈をするエピローグも面白い。これはある種のリドルストーリーで、読者がどれをとっても良いようになっているのが良い仕掛けだと思う。一応の探偵役である夷戸の解釈が解決のように描写されているが、オカルトエンドでも、謎は謎のままエンドでも、納得性がある。

さて、ミステリ的構造についても少し。
まずは「信頼できない語り手」としての夷戸がミステリファンとしては面白い。本作では、夷戸が第一の事件で目撃者として証言をするがそれが間違っているという「本格では」苦笑されそうなシーンがあるが、これは心理学ミステリであり変格ミステリである本作では、そこまで反則の感はない。細部まで配慮された心理学的な裏付けや物語の演出さは、この本格の文脈では成立しない謎の解明に説得力を持たせている。ただの勘違いではなく、心理学的な錯誤であるから、面白いのだ。
さらにこの証言の危うさは、結末のリドルのような解釈の幅にもつながる。

ちなみに夷戸の不確かな感覚は「幻嗅」という形で描写されてもいる。
以下引用。

美盤の部屋は閉め切っていたせいか蒸し暑く、夷戸の気のせいかもしれないが、未だ微かに血の臭いが漂っているように思えた。これが幻嗅というやつなのだろう。夷戸は、自分の頭が時々わからなくなる。現実と非現実の境が曖昧になるように思われるのだ。今日この時も、彼は自分の知覚に疑いの目を向けざるを得なかった。

これは5秒ではなく一瞬だった、血は見ていなかったというような証言の怪しさの伏線としてちゃんと描写がある。この描写があるからこそ、夷戸の感覚の危うさに説明がついている。
このあたりもしっかりと心理学的説明があるのが嬉しいところ。

そして前作でもそうだが、夷戸の解決は「了解」という独特の形式。これは解釈であり、前作で言われている通り「=探偵の解決≠真相」という構造を踏まえたもの。
これも作中では非常に印象的な一文がある。

今までの僕のすべての解釈は、なんの物的証拠もありません。状況から了解した、純粋な解釈の産物です。だから、あなたが反論すれば、すべて崩れるという──

堂々とこう作中で表記しているのもある意味新しい。
倉野さんの作品の面白いところは証拠を提示しないことで、ミステリをミステリたらしめる、逆説的な新感覚のミステリであり、これこそが新変格の流儀の一つなのかなと思う。

謎が円環するのは証拠で確定しないからであり、それは本格ではできないミステリの在り方。
でもだからこそそれを「証拠はない」と一蹴して、十分に面白い設定と構成なのがやはり見事だ。

 

 

 

【ネタバレあり】倉野憲比古『スノウブラインド』感想・解説

どうも、らきむぼんです。

この記事では、ネタバレありで倉野憲比古さんのデビュー作『スノウブラインド』 の感想・解説をしたいと思います。

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【ネタバレあり】倉野憲比古『スノウブラインド』感想・解説

不気味な伝承の残る土地に血塗られた歴史のある館。ドイツ現代史の権威ホーエンハイム教授の邸宅、通称「蝙蝠館」に招待されたゼミ生達は、吹雪で外に出られない状況で、殺人事件に巻き込まれる。
……と、本格も本格、これ以上ないほどの本格ミステリ的ギミックの応酬で、中盤まではまさに古き良きミステリを読んでいると錯覚するが、中盤以降の徐々に崩れていく現実味と、姿を現す超常的現象を契機に本格は変格に反転していく。

この反転の振り幅が楽しい。まるで落下しているのか浮遊しているのか判らないような、自由落下中の無重力のような感覚を味わうことができる。それはクローズドサークルのような本格ギミックだけでなくて、衒学趣味や推理合戦のようなミステリの面白さが、ミステリに慣れ親しんだ読者のツボを押さえていて、読み手が慣れた舞台だからこそ、それが崩れていく違和感の肥大化が目に見えて解かる。

たとえば悪魔憑きなどが起き始めた時点で「あれ、様子がおかしいな(笑)」と思うだろう。
終いには空中浮遊などをするので、そういった本格では本来タブーである領域に踏み込む描写が、トリックなどによる錯覚ではなく「事実」として描かれ始める違和感が、本来の本格ミステリの枠を超えた瞬間に言い得ぬ「変格」としての快感に変わる。

「ここまでは何か現実的なトリックで説明できるかも……これはどうかな……ギリギリいけるかな…………あっ超えた」というような、本格の土俵で説明ができなくなる瞬間がどうにも愛おしい。

具体的には時間遡行がその最たるもので、ある意味そこが本格が終りを迎える瞬間、本格が垣根を超えて変格に切り替わる瞬間で、変格ミステリを愛するものとしては「待ってました」の大興奮なシーンだったと思う。

三大奇書に通じる衒学趣味と酩酊感は、僕のような、その筋の愛好家には大好物だろう。作中でも夢野久作の『ドグラ・マグラ』や小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』に触れており、明確に三大奇書を意識している。『虚無への供物』に否定的な立場を取る人物が登場するのも非常にそれっぽい演出で、実際に『ドグラ・マグラ』と『黒死館殺人事件』を二大奇書的に位置付け、特別視する立場の人もいる。

特に初期乱歩や夢野久作へのオマージュ感は重厚な演出として舞台を作り上げている。……が、実は倉野さんがこのあたりの小説が好きらしいので、ここはそういった影響と趣味が出ているポイントなのかなとも思う。こういったところが作者の持ち味や趣味が良い意味で主張してきて作品の味になっていて好印象。ましてや、倉野先生をTwitterなどで知っているからこその親近感や日常の発言などと結びついて、正しい評価の仕方かどうかは別として、面白いなと思う。作家がSNSで近い距離にいるからこその新しい読書の楽しみ方として、そういった一面があってもいいんじゃないかと思わせる部分がある。

フロイト精神分析が物語の非常に大きなポイントとして扱われている点も好きな点だった。しかもそれがナチス魔女裁判にまで関連するとは面白い。魔女についての知識や今や古文書と言っていい『魔女に与える鉄槌』(作中では『魔女の槌』)なんかにも言及する主人公がなかなかいい。これは魔女について調べたことがある人なら(ほぼいないと思うが笑)一度は目にしたことがある書名だ。

稀覯本に興奮して冷静さを失うあたりはこれを読んでいるミステリファンたちにも通ずるものがあるだろう。飛鳥部勝則などなど、見つけたら興奮するミステリは数多にある。元々はこの『スノウブラインド』だってそういった稀覯本の一つだったのだ。

そして個人的な話だが、古典心理学や精神分析学、魔女にも興味があって初歩的な知識は持っていたので非常に楽しめた。中学くらいの時に出会っていたら、夷戸を目指して心理学をやっていたかもしれない(笑)

夷戸がid(イド)を元ネタにしていることに気付ける程度の浅い知識だけれど、ないよりは役立つものだ、と思ったりする。ちなみに舞城王太郎が脚本を務めるアニメの『id:INVADED イド:インヴェイデッド』もこのイドから取ったであろうタイトルで、内容はまさしく心理学のそれである。

ちなみにボロが出そうなので深くは語れないが、フロイトによる精神分析学の構造論では、イド―自我―超自我という心的構造があり、イドは人間の精神において衝動・本能を司る部分とされている。

心理学的な要素はこのシリーズの楽しい部分の一つであると言えるし、倉野さん自身の独自性の高い分野とも言えるので、今後のシリーズでも度々触れることになる。

さてキャラクターで言えば、ホラー映画を時々紹介してくる根津も魅力的だ。なかなかいい趣味だなとニヤリとする。残念ながらさほど詳しくないので詳細な元ネタは拾えていないけれど、これも倉野さんの普段のツイートなんかを見ていると、書いてて楽しかったに違いないと思う。

倉野さんは文章も非常にうまく、リズムが心地よい。
地の文のわかりやすさは衒学趣味とは相性がよく、小難しいことを大量に語る本作ではわかりやすさとリズムが強力な助けになっている。
そして、掛け合いの描写も非常に良いので、頭脳派と直感派の登場人物がうまく会話しているのが魅力だ。
夷戸と根津はまさにその代表的なキャラクターたちだろう。

トリックについても実はかなり面白い。発売当初はこの辺をクローズアップしすぎて、いまいち読んで欲しい層に届いていなかった感はあるが、それがトリックの質の低さに繋がっているわけではなくて、トリックの質自体はかなり良い。二つの叙述トリックは巧妙だし、そのうちのホーエンハイム教授の性別誤認の叙述トリックは動機やその後の展開に深く関わっていて、叙述トリックに頼り切ったミステリでは決してない。
秀美についても、さらりと情報開示してしまう潔さは脱帽する。本質をそこに置いておらず、読者にサプライズを仕掛ける起爆剤の一つとして効果的に演出していると言えるだろう。

ミステリとしての見方としては、構造論的にも面白い部分がある。
本書から特徴的な部分を引用する。

すべてのものは原初の形態、つまり無機物へと回帰する。探偵小説においては、解決篇というかりそめの緊張低減ではなく、本来の状態──〝未解決のままの渾沌とした謎〟という地点まで大きく戻らなければ、ウソだと思う。この世界は、いつだってわけのわからない謎また謎に充ち満ちているんだからね。すべての有機体が、本来の無機的状態に回帰する基本傾向、これを涅槃原則と言って、フロイトによると死の本能はこの原則に従っているんだ。

人間の手によって産み出された探偵小説も、ひとつの芸術的有機体としての生命を持つならば、謎から解決へと直線的に進むのではなく、さっきも言ったように、謎からまた謎へと円還しなければならない。これが探偵小説にあるべき、究極の涅槃原則だよ。すべてが直線的に進まねばならないというのは、近代的思考の誤謬以外の何ものでもないよ

このあたりの探偵小説への考え方は共感する人も多いはず。これが『スノウブラインド』でやりたかったことなのではないだろうか?
まさに竹本健治の『匣の中の失楽』や麻耶雄嵩の『夏と冬の奏鳴曲』などがそうだが、謎と謎の円環こそがミステリの本質というのは面白い考え方で、同時に本書でまさにメタ的な構造と時間遡行を組み合わせてこれをやっているのが凄い。
夷戸に語らせたミステリの本質論は、作者によってメタ的にこの作品自体に持ち込まれている。
僕がこの作品が好きなのはこういった洒落た美しい構造に魅力を感じたからでもある。

さらに、倉野ミステリにおける「推理」や「解決」は非常に面白い独自性を持っている。
これも引用になるが、作中で夷戸はこう語る。

これは僕の所信表明なんだ。こういった考え方は、探偵小説にも通じるんじゃないかと思うんだ。つまりだ、探偵小説における推理というのは、探偵が構築するひとつの物語に過ぎない、ってね。小栗虫太郎が創造した探偵法水麟太郎は、乱歩的に言えば、怪奇心理学・怪奇薬物学・怪奇医学などを駆使して、事件を推理していくわけだ。だが、法水の推理が正しいという保証はどこにある?主観一辺倒のトンデモナイ推理だよ。怪奇な諸学問に通じた法水が、己の該博な知識を犯罪へと投入して事件を了解し、ひとつの解釈を導き出したに過ぎない。おそらく、異なる人物が黒死館事件を推理すれば、違った〝真相〟を見出し、違った犯人を挙げていただろう。かといって、法水の推理が間違いだってことじゃない。まさに探偵の推理とは、分析場面でのセラピストの解釈という物語と同じように、犯罪を了解し、事件を再構成するための、ひとつの物語に過ぎないのさ。で、要するに、僕も今から探偵役を務めるわけだけど、僕は自分の持つ知識から導きだされた仮定を投入して、この一連の事件に了解操作を行ってみたって言いたいんだ

これは、狙ってかどうかは微妙だが「後期クイーン的問題」の一つの解決かもしれない。解決というよりは解釈のずらしなのだが、このずらしこそ、「変格」ということなのではないだろうか。
本格の呪縛である「探偵の答が真実であると作中の論理では証明できない(黒幕の存在を否定できない)」という問題に対して、夷戸はそもそも真実を提示しない。

倉野ミステリにはロジックミステリに不可欠な「証拠」に関する要素がいい塩梅で欠けている。しかし決して作者の力量不足で言及されないわけではない。あえての証拠の少なさが、推理合戦を混迷させ、同時に読者に対しても解釈の幅と謎の余地を広げている。
夷戸は一人の解釈者であり、了解操作をしたに過ぎない。それは主観であり、一つの物語である。
それは、このミステリがいわゆる「夢オチ」であってもそれ自体に意味があることであるという証明であるし、これを読む読者の切り取った物語がひとつずつ価値のある解釈であるということだ。
それが許されていて、倉野さんのミステリでは決してタブーではない。

個人的には、エピローグで語られる「本当の蝙蝠館での惨劇の顛末」の中にすら未解決の謎を仕込むあたりはめちゃくちゃ好みで、もはやこの無限構造の観測者として永遠にこの作品を読み続けたいほど。あえてやらなくてもいい要素のはずだが、それをやってしまうのが大好きなところ。

物語の前半は吹雪の館と奇妙な住人、そして起こる殺人事件、とオーソドックスな古典ミステリの体裁を取る。しかし次第に歪み始める世界観は読者を「浮遊」させる。読者の違和感はなかなか正体を掴ませない。結末はトリックと物語がしっかり有機的に結びついているので、唐突な終わり方には感じない。物語全体に施された技巧と構成美は、切り捨て難い引っかかりとなって読後も心を騒つかせる。

僕は自分自身でも創作をする。そのときに決めているのは、自分の読みたいものを書くということ。だから、僕は好きな小説を思い浮かべるときに自分の作品も浮かぶ。自分の好きなものを自分の技術を最大限使って書くから。
そういう創作感覚でいるからこそ、自分が書きたいけど技術的に今はまだ書けないというプロの作品に出会ったときに感動する。例えば『匣の中の失楽』とか『眩暈を愛して夢を見よ』とか。
そして『スノウブラインド』はまさにそういう作品だ。
自分の作風の延長線上で、やりたいことをやってくれた紛れもないプロの作品がこの新変格ミステリだ。

 

 

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