哲学のプロムナード(ΦωΦ)黒猫堂

推理小説やSFのレビュー・書評・ネタバレ解説・考察などをやっています。時々創作小説の広報や近況報告もします。

【平成の奇書】麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』紹介&考察・解説

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夏と冬の奏鳴曲

どうも、らきむぼんです。

完全に奇書紹介屋と化していましたが、久しぶりにミステリの紹介と考察・解説をしたいと思います。といっても奇書みたいなものですが……

x0raki.hatenablog.com

今回紹介するミステリは、麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』です。
こちらの作品は、僕の中でオールタイム・ベストの作品と言える作品です。

先日、僕の所属するミス研「社会人ミステリ研究会(通称シャカミス)」にて読書会があったので、シャカミスのブログにも同じ記事を出そうかなと思います。どちらで読んでいただいても大丈夫です。

途中で「ここからはネタバレ」という警告を出しますので、未読の方はその先は読まないようお願い致します。

今回の記事は同じ内容をYou Tubeで動画として投稿する予定です。お前の声なんか聞きたくねえよ、って人はこのまま文字で読んでください!


麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』を紹介


麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』を考察する

 

目次

 

麻耶雄嵩とは

『夏と冬の奏鳴曲』は麻耶雄嵩の第2長編です。

『夏と冬の奏鳴曲』の紹介に移る前に著者の麻耶雄嵩について、紹介させてください。

麻耶雄嵩といえば、2017年に著書の『貴族探偵』シリーズ2作が嵐の相葉雅紀主演でドラマ化され、ファンの中は非常に動揺したことが記憶に新しいです。この動揺というのは「本当に大丈夫なのか?」麻耶雄嵩を一般視聴者に見せて無事で済むのか?」というような動揺で、この「麻耶雄嵩」という作家がいかにコアな人気、カルト的人気を持った作家であるかが解ると思います。
ちなみに『貴族探偵』のドラマは大成功を収め、原作ファンも満足の出来であったと付け加えておきましょう。
しかし、基本的には大衆受けとは真逆の立ち位置にある作風の作家ということは先に申し上げておく必要がある作家なのです。

簡単に経歴をご紹介させていただくと、麻耶雄嵩は京大ミス研出身のいわゆる新本格世代のミステリ作家です。綾辻行人法月綸太郎島田荘司の推薦を受け、1991年に『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』でデビューします。
2011年には『隻眼の少女』で第64回日本推理作家協会賞・第11回本格ミステリ大賞を受賞。2015年に『さよなら神様』で第15回本格ミステリ大賞受賞。
と、名実ともにミステリ界隈における評価は高い作家であると言えます。

一方で、しばしばミステリ初心者には勧めてはいけない作家とも言われます。
それは彼の作風がいわゆる「問題作」である事が多いという点と、かなりテクニカルな実験的作品であるから、だと思います。
たとえば「後期クイーン問題」を題材にした作品、「探偵」と「ワトソン」の関係に踏み込んだ作品、「探偵」という属性の意義を追求した作品、「謎解き」と「結果」の主客転倒、すべての解答が作中で描かれない、といったいわゆるミステリの「お約束」「コード」と呼ばれる様式を破壊する作品が多いのが特徴です。
しかし、コードを破壊したことが解るためにはコードを理解する必要があります。

ミステリの様式への超越のためには、読者はミステリの様式という壁の高さを知っている必要があります。
これが麻耶雄嵩をミステリ初心者に勧められない大きな要因でしょう。

また様式を描くためにやや人工的な舞台、設定、キャラクターとなる事が多いのも特徴です。これは新本格作家の共通した特徴の一つでもあります。これを好むか好まないかは読者の感性に委ねられますが、麻耶雄嵩のやり過ぎなほどのロジカルさや、様々な様式へのアンチテーゼと「人工性」は切り離せない要素であるとも思います。

そしてこれらだけならまだマシなのですが、麻耶雄嵩の作風には更にマニアックな特徴があります。
それが「大破局(カタストロフ)」と呼ばれる展開。
これについては語ることすら難しいのですが、もし麻耶雄嵩を読み続ければ、いつか予想を遥かに凌ぐ「世界」の破滅を目の当たりにすることになるのは間違いないでしょう。

あらすじ

さて、それでは今回の紹介作品『夏と冬の奏鳴曲』のあらすじについて、ご紹介させていただきます。

20年前、映画『春と秋の奏鳴曲』に出演した真宮和音という女優を様々な形と想いで崇拝し、和音島と名づけられた孤島で1年間の共同生活を送った男女がいました。
彼らは20年の時を経て、今は亡き「和音」を偲び、再び和音島に集まり「同窓会」を開くという。
地元の小規模な出版社で雑誌の編集をしている青年、如月烏有はアシスタントとして付いてきた高校生、舞奈桐璃とともに、取材として彼ら6人の「同窓会」に同行することとなった。

しかし彼らと話しすうちに、烏有と桐璃は次第にこの和音島や彼らが居住していた歪んだ屋敷、そして20年の時を経た「崇拝者」たちを纏う影の存在に気づきます。

そんな中、開かれた晩餐の席。約束の時間に遅刻して登場した、黒のフォーマルスーツを身にまとった桐璃の姿を見た、彼らは奇妙な反応をします。場は凍りつき、ある人物は桐璃の姿を見てこうつぶやきました。
「……和音」

これを皮切りに、烏有と桐璃はだんだんと自身とは無関係に思えた深い闇へと引き込まれていきます。
そして、真夏の和音島にあり得ないはずの雪が降ったとき、首無し死体の出現とともに事件は幕を開けます。

 『夏と冬の奏鳴曲』のどこが凄いか

あらすじをお聞きになって如何でしょうか?
ミステリファンにとってはこのあらすじだけで胸が踊ることでしょう。
このミステリには様々な本格ミステリらしさ」が詰まっています。
例えば「島」で起きる殺人事件、降雪と首無死体、これらは本格ミステリのお約束といえる設定でもあります。お約束がしっかりとしているということは、それを破壊するための手法に、それだけ耐えうる強度を持っているとも言えます。
そして、何よりも衝撃的なのは夏に降る雪でしょう。
これはミステリファンにとっては単なる異常気象ではありません。
非現実・奇跡・偶然といったロジックの外にある事象はミステリの基礎構造からは逸脱します。
もちろん全く相容れないわけではなく、それを生かした作品も数多にありますが、これらを世界観に含めるかどうかは非常に重要です。

しかし実はそれだけではなく、ロジック面でも非常に重要だとも言っておきましょう。
何故ならば、夏に雪が降ることは「予想不可能」だからです。
これは雪によって生じる不可能性や不可逆性を「事前に予測できなかった」ことの証左であるため、きちんとミステリのロジックにも関わってくるのです。

さて、この作品が極めて特殊な作品であることは、前述の異常気象だけではもちろんありません。
この作品の最も大きな特徴はその難解さにあります。

ストーリーの筋や、行われている各人物の行動は決して難解ではありません。

まず読者の何割かが難解だと感じているのは作中で重要な意味を持っているキュビズムについての解説です。
キュビズム(作中では「キュビスム」と言っています)とは、20世紀初頭にパブロ・ピカソジョルジュ・ブラックによって創始された画法です。対象を分析して、三次元を経由して二次元に戻す。抽象化から再構築する、そういった表現です。複数の視点を一つの絵に描きこむことで情報量を増やし、その視点の破片同士の相関も相まってより対象を理解するという側面もあります。
このキュビズムがこの作品の重要な部分を担っていて、作中でも詳しく説明されますが、興味の薄い人からしたら難解そのものでしょう。
ただ、実は基礎的な理解や作中での観念的な理解としては非常にわかりやすく、面白い部分でもあります。

そして多くの読者が難解に感じるのはそんなキュビズムをも内包した作品そのものの理解でしょう。
これは読んでから調べていただきたいのですが、この作品の考察は多岐に渡り、僕の考察記事や動画もその一つに過ぎません。この作品は、読んだあとが「本番」なのかもしれません。

これ以上の説明は困難を極めますが、一つ言えることは、この作品が麻耶雄嵩の最大の代表作であり、最大の問題作であるということです。
先ほど「麻耶雄嵩」の紹介で説明した異端のミステリ芸術のすべてがこの作品に詰まっていると言っても過言ではありません。

シリーズとしての立ち位置

『夏と冬の奏鳴曲』はミステリファンの中では「夏冬」と呼ばれているので、私もこれに習い「夏冬」と呼ばせてもらいましょう。

『夏冬』は1993年07月29日に講談社ノベルスから発売された500頁のミステリ長編です。
麻耶雄嵩の作品にはいくつかのシリーズ作品がありますが、その世界観は一部繋がっており、同一の世界であることが明示されています。この作品はそれらの世界(シリーズ)を繋ぐ非常に重要な地点にある、最も異形な作品です。
ここで少しだけ麻耶雄嵩のデビュー作品について触れておきましょう。
デビュー作の『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』からは二人の探偵のシリーズが派生します。
それが銘探偵メルカトル鮎シリーズ』『名探偵木更津悠也シリーズ』です。
この2つのシリーズはこのデビュー作から生まれ、現在も続いています。
そしてこの2つのシリーズのクロスオーヴァー2作目であり麻耶雄嵩の第2長編であるのが『夏冬』です。

しかし実際のところ『夏冬』は単体で読み始めることが可能です。
この作品は前述の両シリーズの2作目でありながら、内容的にはほぼ独立しており、更には第3のシリーズの始まりの作品でもあるからです。

その第3のシリーズというのが『如月烏有シリーズ』です。
如月烏有という青年を主人公としたシリーズがこの『夏冬』から始まるため、読者はこの作品を単一のシリーズ1作目として読むことも可能ということになります。

『夏冬』ではこの烏有についての物語がメインで展開され、メルカトル鮎と木更津悠也については、「そんな探偵がいる」という程度の知識で問題ありません。

もちろん、この作品で沼にハマった人は、デビュー作の『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』も読むことになりますし、続編の『痾』も読むことになります。しかし、あなたがもし『夏冬』で麻耶雄嵩の魅力に取り憑かれてしまったのなら、続編の『痾』をデビュー作の『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』よりも先に読むことはおすすめしません。夏冬を読んで、その勢いで『痾』を読みたくなるのは誰もがそうなのですが、『痾』には『翼ある闇』のネタバレがあるため、ご注意ください。

そういったことを踏まえると、僕の個人的なすすめとしてはやはり『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』から順に読むことを推奨します。
ここでは『夏と冬の奏鳴曲』についてしか紹介しませんでしたが、実はデビュー作の『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』も非常に波紋を呼んだ問題作なので、まずはデビュー作で思い切り脳を揺さぶられてから、さらなる境地である『夏と冬の奏鳴曲』に挑むのも良いでしょう。

 まとめ

さて、ここまで麻耶雄嵩作品の作風や『夏と冬の奏鳴曲』の紹介をさせていただきましたが、実際のところ、何がすごくて、何が面白くて、何が「異常」なのか、そのすべてをお伝えできたとは思っていません。

しかし、ネタバレ無しの紹介でそれが全て伝えきれないということ自体がこの作品の深さでもあります。

最後に、この作品の文庫の背表紙にはこんな紹介分が記載されています。

メルカトル鮎の一言がすべてを解決する」

キュビズムの解説でめげそうになっても、どれだけ「異常」な展開が待ち受けていたとしても、この言葉を信じてメルカトル鮎の登場まで、ぜひ読んでみてください

この作品がいかに傑作で、唯一無二の作品であるかは、ぜひ読んでいただいた皆さまで判断していただきたいと思います。そして、また一つ面白い考察が生まれることを期待しています。

さてここからはネタバレ全開で考察をしていこうと思います。

覚悟の上、臨んでください!

 

 ネタバレ考察

 

 

ではでは、『夏と冬の奏鳴曲』のネタバレありの考察をしたいと思います。
もちろん、考察をする上で作品のネタバレをしますので、未読の方はぜひ読了の上、ご覧ください。

さて、この作品の考察は実は多くの人が挑戦し、多くの場で語ってきたものです。
それは1993年の発表から今に至るまで、蓄積し続けています。

僕自身もまた、その一人ですし、僕のミステリ仲間たちもそうです。
先日も、僕の所属するミス研では6時間もぶっ続けで語り明かしました。

もちろんその中でいろんな考察がありましたし、ネット上にもたくさんの解釈が存在します。
この動画ではそれらをすべて紹介するわけではありません。
あくまでも僕が考察し採用した説をお話しますので、数多の考察との一致や相違は多々あるかと思いますが、ご了承ください。むしろ、この動画をきっかけに考察が捗れば嬉しく思います。

そして重要な注意点を一つ。
この記事では続編の『痾』及び関連作の『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』の内容には言及しません。
あくまでも『夏と冬の奏鳴曲』の内容からの類推、考察、解釈を行います。

 

まずは「何が起きたか」 

ではまず、『夏と冬の奏鳴曲』では全体を通して何が起きていたか、を考えていこうと思います。

考察すべき点は多いようで少なく、重要な点はいくつかに絞られます。
しかし、考察できるほどに察した読者もいれば、そもそもほとんど何が起きたか気づかなかったという読者もいます。ネットでは考察している人のほうが目立ちますが、実際はポカンとして終わることのほうが多いのかもしれませんね。

なので「わかった前提」で語るのは今回避けたいと思います。
まずはとりあえず読了さえできていればそれで構わないですし、そこで感じたことこそが最も重要なものだと思います。

ということで、多くの人が疑問に思った点に回答する形で進めていこうと思います。

 

メルカトル鮎の一言の意味は?

まず、この作品の最も強烈な種明かしが銘探偵メルカトル鮎の登場と発言でしょう。

メルカトルはセーラームーンのセリフとともに奇妙な出で立ちで登場し、烏有にこう言います。

きみの所の編集長の名前は何といいましたっけ?

それに対し、烏有は

確か彼女の名前は、和……

と言いかけて、彼にとっては「すべてが解決」するわけです。
そういえばセーラームーンといえば、桐璃の通う高校の名前もセーラームーンネタですね。

閑話休題
メルカトルの言葉と烏有の気付き。
これが何を意味しているかにある程度解答を示すことで、他の謎についても有機的に繋げていくことができます。

まず編集長の名前ですがこれはほぼ間違いなく「和音」でしょう。ここまでは基本的に異論はないと思われます。
この作品で「和音」の名前を持っている登場人物ならば、やはり一連の出来事と関係がないわけがありません。
そして烏有がそれを思い出したことで全てを理解できるということは、烏有の持つ情報と編集長の名前でおよそ烏有の感じていた疑問は氷解するということです。
もちろん、解決するのはあくまでも読者の謎ではなく、烏有の疑問に過ぎませんが……

では編集長と烏有にはどんな関係があるのでしょうか。
烏有は桐璃と出会い、創華社の準社員となります。
では桐璃と編集長はどんな関係を持っているのか。
実は作中でこれは明言されませんが、桐璃が創華社に出入りしていることは間違いなく、編集長との何らかの繋がりがあることは明示されています。

烏有は編集長の名前を思い出してからこう続けています。

そう……そうだったんですか。最初から……

この言葉の意味については、文脈的に類推が可能でしょう。
つまり「最初から仕組まれていた」「最初から決まっていた」そういった言葉が続くことは想像に難くありません。
如月烏有は桐璃を通じて、編集長の元へと呼び込まれた。そしてそれは予定調和だった。
そう仮定すれば、映画『春と秋の奏鳴曲』でヌルが烏有、和音が桐璃の人生そのものだった理由にも思い至れるのではないでしょうか。

結論から言えば、全て「逆だった」、この物語はそういうことなんです

 

映画『春と秋の奏鳴曲』が未来を予知していた理由 

では、改めて映画『春と秋の奏鳴曲』が未来を予知していた理由について考えましょう。

これは先程の説明の通り、全て「逆」だったと考える方が納得性は高いです。
つまり『春と秋の奏鳴曲』が未来を描いていたのではなく、『春と秋の奏鳴曲』に合わせて現実を作ったのでしょう。

そんな事が可能なのか、と思うかもしれません。しかし未来を予知することよりは可能性は高いでしょう。
ヌルに合わせて同じ境遇の少年を創り出した。
それは同じ境遇の少年を探したのか、あるいは狙って作ったのか、厳密にはわかりません。
しかし、作中には烏有が道路に飛び出した原因となった「黒猫」が意味深に登場します。
その傍らには舞奈桐璃がいるのです。

ではその舞奈桐璃についてはどうでしょうか。
桐璃の属性には主に3つの要素があります。

一つはおそらく双子であること「うゆーさん」と長音府で呼ぶ桐璃、そして「うゆうさん」と長音付を用いないで呼ぶ白い服の桐璃です。彼女たちは作中で入れ替わりつつ烏有と会話をします。

もう一つは『春と秋の奏鳴曲』に登場する和音と同じ役を演じること
これは彼女(のいずれか一人)はある程度計画を知っていたことを意味します。長音付の桐璃は殆ど事情を知らない様子ではありますが、全く知らないというわけにはいかないでしょう。白い服の桐璃に関しては途中で二重人格の話をするなど、明らかに後の展開を理解しています。

最後の一つは、武藤の描いた「和音」の肖像画と、桐璃が瓜二つであるということです。
これはなかなか厳しい要素ではありますが、やはり烏有同様にデザインされた人生を送っている、と考えるほかないでしょう。

作中では真鍋夫妻という使用人夫妻が登場します。
彼らには、20年前に医者として幼児を死産と偽り売買していたと思われる疑いがあります。
これが事実であれば、『春と秋の奏鳴曲』に合わせたキャスティングをする環境が整っていたことになります。
編集長と島の管理人である水鏡=武藤は、すべて知った上で真鍋夫妻を匿っていた。その背景には真鍋夫妻が和音編集長の依頼で、将来「和音」の肖像画と似た顔になる双子の幼児を手に入れた、という事情があるのではないでしょうか。
桐璃のフォーマルスーツが母の遺品であるという発言と、烏有の桐璃の両親は健在という発言の矛盾も、傍証の一つとしていいでしょう。医大生の葬儀で、青年の妹の目が黄色いのもかなり意味深です。
桐璃は黒のフォーマルスーツを身に着けるまでは肖像画の「和音」との類似性を指摘されていなかったので、完全に顔立ちが一致する必要はないと言えますし、整形も可能です。まあしかし、この作品においては整形というのは少々無粋でしょうか。

さて、ここで僕の説明に疑問を感じた方がいるかもしれません。
「和音」の肖像に似ているということは編集長に似ているということなのだから、桐璃は編集長の娘なんじゃないの?
そもそも肖像画を見て桐璃と似ていると思うのなら、編集長の顔を知っている烏有はまず編集長と似ていると感じるんじゃないの?

という疑問です。
こちらについては、キュビズムと和音島の島民たちの生活が関わってきます。

 

和音と「和音」
エピローグ[補遺]で語られる編集長の名前ですが、これは前述の通り「和音」であると考えられます。
では、編集長は20年前、島で生活をしていた一人なのでしょうか?

ここは解釈が分かれるところですが、僕はいなかったと考えています。
20年後の村沢、尚美、結城、パトリク神父が編集長和音に対して何も語らなかったのは、意図的だったのか、それとも知らなかったのか。
おそらくは知らなかった、そもそも編集長は島にいなかったと考えるほうが妥当な気がします。

そもそも彼らは『春と秋の奏鳴曲』をきっかけに島で生活を始めたわけではなく、元々水鏡と武藤の繋がりがあり、そこからメンバーが揃ったという経緯であることが示唆されています。
おそらく、編集長は水鏡よりも前に武藤と出会ったのでしょう。

島の共同生活において、和音という存在はメンバーの生活の一部や理想といった「フェイズ」を重ね合わせて展開された「神」であったと説明されます。
彼女の部屋は外壁に繋がり実在せず、『春と秋の奏鳴曲』には和音の姿はありません。
彼女は絵を描き、歌い、舞いますが、それは武藤やパトリク神父、結城、そして尚美によって表現され、それが真宮和音としてアイデンティファイされるのです。
特に顕著なのは『春と秋の奏鳴曲』で和音を演じたのが尚美だったことです。これこそが神としての和音が島に実在していなかったことの証左とも言えます。

では和音を名乗る編集長は何者なのか?
彼女は実在しています。しかし島で崇拝された「和音」とはその性質は全く異なります。
島での共同生活が共有され「和音」という一つの偶像になっていったのであれば、編集長もまた「和音」の一部を提供しているのではないでしょうか
つまりそれは「名前」です。

もしも編集長が肖像画の「和音」と同じ容姿なのであれば、『春と秋の奏鳴曲』は和音が演じるべきでしょう。しかしそうではなかった。編集長の容姿は「和音の容姿」とは切り離されています。
編集長が担っているのは、「和音」の名前というフェイズといえるのではないでしょうか。

この仮説に基づけば、桐璃の姿和音の肖像画和音編集長という式には矛盾がありません。

さて、ここまでの解釈に基づいて、編集長和音と武藤が幼児売買や成功可能性の低いキャスティングをした目的について考えてみましょう。

 

編集長の目的
編集長が作中のあらゆる「操り」の実行によって何を得たのか。
それは朧気ではありますが、類推は可能です。
作中のラストで描かれたのは「和音」の復活です。

そもそも、我々が読んだ『夏と冬の奏鳴曲』という小説こそが武藤の書いた『春と秋の奏鳴曲』の続編、彼のいうところの「黙示録」であると思われるので、『夏と冬の奏鳴曲』のストーリーラインは20年前におおよそ書き記されており、基本的にはそれを知る人物たちが操りを駆使して再現を行っていたと思われます。
もちろん、我々の目にしている『夏と冬の奏鳴曲』が黙示録そのものなのか、「黙示録」を再現しようとして起きた事柄を描いた物語なのか、そういったメタ的なレイヤーの位置は厳密に特定することができません。何も知らない烏有や村沢たちの行動がどこまで計画内の行動に収まったかは判然としていませんので、黙示録そのものという線は幾分可能性が低そうに思われますが……。
パトリク神父が「黙示録」を目にすることで、武藤に対しての評価を改め、再現に協力的になっている点を鑑みれば、やはりこれは「黙示録」が『夏と冬の奏鳴曲』というタイトルであり、我々の読んでいる『夏と冬の奏鳴曲』はその再現であると捉えるのが収まりが良いでしょうか。

閑話休題、本筋に話を戻しましょう。

元々、編集長と武藤は「和音」という崇拝対象を生み出すことには成功しています。
しかしそれは様々なフェイズを共有し、一つの「キャンバス」に同時に描く、キュビズム的な絶対性という形を取っていました。
しかし、一冊の本『立体派の内奥』によりその幻想は瓦解します。
人間としてのフェイズを持たせ展開された和音は絶対性を持ち得たが、それと同時に二極化により相対化されてしまった、と作中にはあります。
それが彼らにとっての「和音の死」でした。
それをキリスト教への帰依で超越しようとしたのが小柳であり、彼は作中に置いて「密室」の奇蹟を目の当たりにすることで、和音の復活を確信しています。

その裏にはもちろんトリックがあるわけですが、トリックというロジカルな現実性と同時にやはり観念的な部分もあるように僕は思います。
切り刻まれた「和音」は左目を失い、桐璃もまた左目を失います、そしてパピエ・コレにより眼球という異物を取り込んだ和音は「傷のない」和音として蘇る。白い服の桐璃は左目を失った桐璃と別に存在するが、自らをこの計画のトリックの一部だと理解しています。
この計画された儀礼を通して、和音は復活した。
その復活こそが、やはり編集長の目的だったのでしょうか。

桐璃は作中でずっと烏有を「うゆーさん」「うゆうさん」と呼んでいますが、最後の最後で一度だけ彼を「烏有さん」と呼びます。そして苦手だと言っていたコーヒーを飲み干します。
彼女は個としての「桐璃」に成ったのでしょうか、それとも復活した「和音」となったのでしょうか。
自分を選んだ烏有に何を思ったのでしょうか。

和音の復活は烏有という何もない空白の視点を通して、『夏と冬の奏鳴曲』に記録されました。
「黙示録」は成ったのです。

 

名前が指し示す意味
『春と秋の奏鳴曲』の主人公ヌルは文字通りNull、何もないことを表しています。
烏有の名前も同じく「烏んぞ有らんや」つまり何もないことを表しています。

何でもない者とはこの物語では非常に重要なファクターです。
何でもないものは、何からでもなれる、何にでもなれるとも解釈でき、それは烏有そのもの人生や属性に近いイメージを持ちます。
または「何もない」「空白」という捉え方もまた、自身の代わりに死んだ青年になろうとする烏有そのものの個の喪失とも符合します。

名前といえば、銘探偵メルカトル鮎にも言及すべきでしょう。
銘探偵とは「名前」の「名」ではなく「銘打つ」の「銘」です。これは彼が「名高い探偵」ではなく「銘打つ探偵」であることを意味します。彼が銘打ったのは真実であり、「絶対性」です。
キュビズムの精神性、理念に基づき、桐璃の目という異物を組み込むことで「和音」は絶対化し、蘇りました。
そしてそれらは和音の名を持つ編集長の操りともいえます。
しかしメルカトル鮎という異物の登場は絶対性を突き崩します。絶対に相対する絶対は、絶対性を相対化するのです。
『夏と冬の奏鳴曲』という作品は、武藤の書いた『黙示録』であることが冒頭のシーンから示唆されます。
しかし、本書の銘探偵メルカトル鮎の登場シーンは本編とは切り離されています
このシーンの章題は「エピローグ[補遺]」です。つまり『黙示録』の補遺。
補遺とは補うために付け加えられた部分です。この章がエピローグであり、黙示録=『夏と冬の奏鳴曲』の補遺であることがメルカトル鮎が異なるレイヤーにいる存在であることを匂わせています。

一見デウス・エクス・マキナの「神」たるメルカトル鮎ですが、その実は錯綜した糸を解くことで見えていなかった「虚無」を引き摺り出したに過ぎません。『黙示録=(夏と冬の奏鳴曲)』のキャストでしかない烏有とその糸を手繰る存在である編集長(和音)を同じ舞台に相対化する、絶対点がメルカトルに置き換わること、それこそが「銘探偵」の定義なのかもしれません。

 

ミステリとして
さて、ここまででほとんど考察を終えることができました。
ここからは考察とは別にミステリとしての面白い部分を少しだけお伝えします。
読了済の方々には蛇足ですが、やはり「ここが好き!」という部分は共有したいんです

まずは、この物語のガジェットです。
孤島首無死体雪密室といった舞台設定。
本格そのものといえるこの設定はやはりミステリファンにはたまらないでしょう。
それでいて、夏に降る雪という異常事態、ロジックを排した完全なる偶然性=奇蹟
これが密室においては事前に予期できなかった要素として働くのはもちろん、パトリク神父にとっての動機付けとして、物語にしっかり絡んでくるのがとにかく凄い。

首無死体にしても素晴らしい。
首を切断した理由や、死体を隠した理由はかなりしっかりとしたロジックが組まれており、このある意味荒唐無稽と言える物語に対してのカウンターとして非常にうまく作用しています。

トリックについても、一流のマジックを見せられたかのような大胆かつシンプルな仕掛けがされていて、面白い。
まずは水鏡と武藤の入れ替え、これについて烏有が早々に気づくのも烏有が彼に襲われた経緯があるので当然です。
そして血痕をタバコで焼くという行為もしっかり隠蔽の描写として描かれています。
結城の失踪について、彼を死んでいると断定しているのも同じく烏有が犯人であるからというシンプルなもの。
とにかく描写の一つ一つが堂々としていて見事です。

それに加え、二人の桐璃の二人一役も面白い。
彼女たちに至っては、必ず同じ白い服で現れる長音付のない桐璃もそうですし、牛乳のパックも然り二重人格の話題まで出し、序盤では自分の名前まで訊いている。そこまでやっていながら、彼女たちの二人一役は烏有が犯人であることよりも遥かに見つかりにくく隠蔽されています。

終盤の「桐璃の分裂」新雪モーセの海割り」で、全部吹っ飛んでしまいがちですが、不可解な謎を抜きにして考えても、非常に優れたミステリであると言えると思います。

ちなみに雪が分断されていくのはバカミスとして大好きです

あれ笑わない人いないでしょ・・・・・・(笑)

 

麻耶ファンとして

僕の麻耶雄嵩作品遍歴は、僕のミステリ遍歴とそう変わりません。

元々僕は読書が趣味でしたが、どちらかというと創るほうが好きでした。なので年に数冊しか小説は読んでいませんでしたし、その数冊もかなりバラバラのジャンルでした。

そんな中で僕がミステリを本格的に読むようになったのは、麻耶雄嵩を読んだからです。
最初に読んだのは『隻眼の少女』で、これは凄い、と思ったんです。それは朧気に知っていた後期クイーン問題に真っ向からぶつかっていたからでした。
内容よりも、枠組みの方に衝撃の重心を持ってくるという発想がミステリ初心者の僕にはかなりアウトローに見えました。

そこから次々に麻耶を読むのですが、読むたびにミステリに詳しくなった気がしました。
麻耶作品をもっと楽しむにはミステリの王道を知っていなくては、と思いました。

そこで出会ったのが『夏と冬の奏鳴曲』であり、そしてその頃には解らなかったことがやっと解るようになってきて、満を持して再読したのが先月のこと。

やはりこの作品は麻耶らしくミステリとして壊れていながら、それでもミステリです。
僕が麻耶作品に揺さぶられた要素が詰まっています。
探偵とはなにか?という命題。
すべてを呑み込む大破局
読者を欺く叙述トリック
過剰なほどに組み合わされたギミック。
バカミス的物理法則。
解決しないリドル。
読者を徹底的に突き放した展開。
後味の悪い人間の醜い選択。
これ以上に詰め込まれた「麻耶み」は他の作品では体験できません。

後に麻耶的要素が集約された『螢』という傑作が生まれますが、この作品が麻耶作品の初手として、あるいはワクチンとして(笑)、非常に優れた教科書的作品である一方で、『夏と冬の奏鳴曲』はその上級編と言えるでしょう。
それだけ人を選びますし、賛否も分かれますが、やはり刺さる人には本当に刺さります。

それこそ、それまでの読書経験を過去のものに変える程に。
僕は『春と秋の奏鳴曲』を烏有が観ることになるあの瞬間の、鳥肌が立つ感覚を忘れられないですし、必死に守りたいと決意した桐璃を島の深くへと封じ、傷のない桐璃を選んでしまう烏有の選択に感じた心の震えを忘れないでしょう。

この経験を再び味わう時が来ることを願って、僕は読書を続けます。
あわよくば、再び麻耶作品によって、その時が訪れることを願いつつ。

 

痾 (講談社文庫)

痾 (講談社文庫)

  • 作者:麻耶 雄嵩
  • 発売日: 1999/01/14
  • メディア: 文庫
 

 

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