哲学のプロムナード(ΦωΦ)黒猫堂

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井上真偽 『その可能性はすでに考えた』 レビュー/後半でネタバレ

その可能性はすでに考えた (講談社ノベルス)

その可能性はすでに考えた (講談社ノベルス)

 

 

目次

 

その能性はすでにえた

かつて、カルト宗教団体が首を斬り落とす集団自殺を行った。その十数年後、唯一の生き残りの少女は事件の謎を解くために、青髪の探偵・上笠丞と相棒のフーリンのもとを訪れる。彼女の中に眠る、不可思議な記憶。それは、ともに暮らした少年が首を斬り落とされながらも、少女の命を守るため、彼女を抱きかかえ運んだ、というものだった。首なし聖人の伝説を彷彿とさせる、その奇蹟の正体とは…!?探偵は、奇蹟がこの世に存在することを証明するため、すべてのトリックが不成立であることを立証する!! 

 

レビュー 

粗い部分は多いが面白い。発想を存分に活かして作品に落とし込んでいるのがよく解る。

 

麻耶雄嵩の「これはアンチミステリではない ただの奇跡だ」という帯はかなり正鵠を射ているというか、まさにこの作品を形容する一つの視点として真実味がある。

ジャンルとしては確かに「探偵」に対してアンチミステリ的な試みが成されているのだけれど、ストーリーというかプロットには思いの外真っ当なハウダニットのロジックが組まれていて、全体を通すとアンチミステリというより反転ミステリといったような感じだ。

かのシャーロック・ホームズは「不可能なものを排除していって、残ったものがどんなに信じられないものでも、それが真実」という名言を残しているけれど、今回の探偵である上笠丞はこのホームズのスタイルと対になるような探偵だ。
それは一見人の手によるとする解釈が困難な事件の、あらゆる人的・現実的な可能性を否定し尽くすことで、その事件が「奇蹟」であることを証明するというものである。
探偵というのは奇蹟のような事件を人の手による犯罪だと見破ることが多いわけだが、本作の上笠丞は奇蹟の存在を信じており、真の奇蹟を証明することを目指し、ライフワークにしている。

上記の通り、探偵としての上笠丞の仕事はいわばトリックの網羅だ。それで解決できなければ、それは「奇蹟」であるわけで、したがってその証明方法は奇蹟という選択肢以外のあらゆる可能性の矛盾をついてロジックで消去していくことになる。

以上の設定からしてストーリーは少々珍しい物になっている。
まず依頼人により「問題」に当たる過去の一見奇跡的な事件が語られる。それに対して上笠丞はそれが奇蹟であるという結論を出す。
そして本作の主要な内容は多重推理、多重解決のミステリとなっている点だろう。
上笠丞の「奇蹟という結論」に対して様々なキャラクターが目の前に立ちふさがり、仮説を呈するのだ。つまり、人的なトリックであると証明するのが敵であり、それを解決できない奇蹟だと証明するのが主役である上笠と相棒のヤオ・フーリンになる。立場が反転しているのが面白い。

一つの問題が最初に提示され、それに対して複数の敵がそれぞれトリックの可能性を出していく。ここで重要なのが、上笠丞は現実的根拠と証言を以ってしてその仮説やトリックを論破していく必要があるが、敵に当たる側から提示されるトリックはあくまでも可能性さえあればなんでもありという点だ。
奇蹟の証明の為にはそれ以外のすべての可能性を排除せねばならないので、逆に言えば奇蹟でないことを証明するならばたとえ僅かでも可能性を指摘すればいいことになる。
これがルールとして前提にあるので、本作は非常にバカミス的なトリックがいくつも出てくることになる。可能性さえあればなんでもありなのだから。
しかしこれを根拠に現実的じゃなくてつまらないとか駄作というのは少々違うだろう。まず前述のルールの内なのだから実際の解決とは趣旨が違う

面白いのはそれに対する上笠丞の矛盾の指摘にある。この作品におけるミステリ的面白みは、解決ではなく「解決の否定」の方だ。
こちらは語られる事件の内容の僅かな記述や表現を根拠に鮮やかに仮設を否定する。
それに至る根拠や論理の方が、本作の推理要素だろう。

さて、話はズレるが本作を読んで最初に僕が思ったのは、城平京の『虚構推理』に非常にロジックの運び方や手法が似ているなということだった。こういった多重解決のミステリは城平京の得意とするところで、漫画の『スパイラル~推理の絆~』やそのノベルズの2巻、デビュー小説の『名探偵に薔薇を』は、そういった要素があるか、あるいはまさに多重解決モノそのものだったりする。
城平京というあまりにコミック原作者としての名前が売れてしまっている推理作家が、小説の舞台に戻りつつある今、本作が好きなら城平京の小説も好きなのでは、とちょっと思ったりする。

最後に、本作にはラストの展開に際して、否定による逆転した多重推理・多重解決をうまく活かしたエピソードが待っている。プロットの構成美が非常に際立っているラストなので、見所といっていいだろう。

 

追記

最近続編が発売されました。

 

↓ネタバレはこの下↓

  

聖女の毒杯 その可能性はすでに考えた (講談社ノベルス)

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その可能性はすでに考えた (講談社ノベルス)

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虚構推理(1) (講談社コミックス月刊マガジン)

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虚構推理 (講談社文庫)

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雨の日も神様と相撲を (講談社タイガ)

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名探偵に薔薇を (創元推理文庫)

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ネタバレ

 

さてネタバレでは少々展開の内容に触れておきたい。

まず作中で登場するトリックは3つ。


大門のトリック「炙り家畜踏み車」

リーシーのトリック「水車トレビュシェット・ピンホールショット」

聯のトリック「君の神様はどこにいる? 聖ウィニフレッドのクリーン発電」


そしてこの3つのトリックが全て上笠丞に否定された後に、それまで三人の影に見え隠れしていた黒幕が登場するわけだ。

黒幕カヴァリエーレ枢機卿は、これまでのトリックの仮説をぶつけるやり方でなく、それまで上笠丞が否定した3つのトリックの一部を使い、否定同士の矛盾をついた、いわば否定を否定するようなやり方で上笠丞を追い詰める。これは作中でも〈否定の否定〉と呼ばれている。


それに対して上笠は否定の否定が、個々の否定の具体的な指摘に及ばないというロジックの構造を利用して、枢機卿を打ち破る。
しかしそれは上笠が想定していなかった仮説を浮き彫りにしてしまったたため、彼の探偵としてのスタイル自体の否定にも繋がりかねず、結果的に引き分けたような形になる。


最後に上笠は新たな仮説を提示して物語は終わるのだが、非常に危ういながらも綺麗な収まり方をしてると僕は思う。


さて、ここからは雑感というか、先日エアミス研の読書会でも述べたようなことを幾つか。


まず依頼人がリゼでないことは、なんとなく推理できていたけれど、中盤まで本当は黒幕じゃないかと思ってた。
実は上笠丞がドウニじゃないかという可能性まで一度思考の舞台に上げたという(笑)
疑心暗鬼もここまで来ると病気だ。

疑心暗鬼で読んでいたからかもしれないけれど、気になるのはカヴァリエーレ枢機卿があっさり論破されて引き下がるところ。僕はなんとなく、単純な駆け引きではないような気もしている。

上笠が憂思黙考(ブラウンスタディ)という難解な出来事に遭遇した時に行う内観を行った時点でカヴァリエーレ枢機卿の勝利条件が揃ったのではないか。

そもそもピンチの時の必殺技を実際に披露することは基本的にありえない探偵なのだ。なぜなら上笠が正しいという前提では既に膨大な調査報告書に全て答えが載っているはずなのだから。
ピンチになりようがないのが本来であり、もしこの憂思黙考を行うなら調査時であって、後から対決する今回のようなケースなら、それが発揮された時点でアウトというわけである。

つまり、奇蹟の証明の手段としてあらゆるトリックの可能性を否定するという根本条件の上で、それらを網羅した調査書を仕上げたのにも関わらず、その上に更に思考するという段階を踏まねばならなかったという事実は、すでにこの段階で勝負を降りても奇蹟の証明の失敗を指しているという判断ではないだろうか。

これが憎しみ合う真の敵同士ならばこの枢機卿のやや詰めの甘い対処は違和感がありすぎるが、作中でも触れられている「二人の関係性も少しずつ変わっているのだろう」というヤオ・フーリン視点の描写を「信じれば」これも全く納得がいかないわけではないだろう。


残念なのは、別に論理的に必ずそうなるわけではないけれど、流れとして憂思黙考という必殺技めいたものが示唆されているのだから、上笠丞の「関知する可能性の外の何か」が現れるであろうことは残念ながら推測できてしまう。
その時点でストーリーのオチがやや見えてきてしまう。つまり奇蹟は証明できずいわゆる「戦いはまだまだ続く」という話になりやすい。それでいていわば「必殺技」である「憂思黙考」が出てくるならそれで黒幕を倒せないのも通常の流れではないので、「勝負に勝つものの目的は果たせず」という形のオチになることすら読めてしまう。

読めてしまうというのは完全にこうなると推理できるというよりはうっすらと読めてしまうもしかしてこんな感じになるんじゃないの?という予感に近い感覚だけれど、それがあるとないではやはり意外性への評価が随分変わってしまう。

多重解決ものといえば僕の中では城平京だ。

城平京のファンだからこそ、彼の得意とする多重推理とロジックの運び方が染み付いていて、今までの上笠丞の「否定のロジック」が組み合わさり何かが起きるということも何となく予想はできた。ただ内容は非常によく作られていて全く当てられなかった。そんな矛盾が起きるなんて!という驚きは本物で、その点で非常に面白かった。
予想出来ていたとしても、ロジックが精緻で、とてもじゃないが内容までピタリと当てるのは困難だったので、面白さはあまり変わらなかったかもしれない。


それから最後の「真実」を指す答え合わせ的エピローグだけれど、これはあくまでも「真実っぽい」という落とし所であって、つまるところ今まで否定してきた「トリック」という「非奇蹟」を今度は上笠丞が構築しているという「趣」を楽しむという視点のほうがよさそうだ。
そもそもとてもじゃないが「教祖が協力的であった」とか「纏っていた服を上手いこと工夫して首無しに見せた」とか「大麻がうまく作用した」とかそのあたりを「可能性の提示」とは言えラストに持ってくるのは弱すぎる。あらゆる可能性を排除する探偵が、その排除を完全には達成できなかったとはいえ、超人的に可能性を排除するには至っているわけなのだから、こんなミステリファンなら普通に思いつくものを思いつかないわけがないのではないか。
と、まじめに批判する場所を探そうとすると、そう思わないでもない。

ただ、上笠丞はこの語りにおいて、二点の構成美を付与している。

一つは依頼人にとって信じたい真実を呈したこと。誰も傷つかないことを良しとしている。生と死の狭間にある者、生きながらにして死んだ者、すでに死した者、という三者の思いが一体となり一人の未来ある少女の希望を繋いだ。この語りで、この論理が「可能性」に基づく答の一つとして最も選びたかったカッコつきの「真相」だったのだろうと考えられる。

もう一つは、敵対する上笠丞とカヴァリエーレ枢機卿の相反する視点が合わさったことによって弁証法的に昇華した「一つの可能性」だと語られるところだろう。これは、この説明自体がないと価値は生まれないかもしれない。読者が普通に読んで「なるほど~これは弁証法的な新しい結論なんだな!」となるだろうか(笑)
逆に言えばこの説明が美的センスを物語っていて、個人的にはセンスのあるまとめ方かなと思う。こじつけっぽいとしても。


という感じで、全体的にミステリファン好みというか、ミステリファンが色々とロジックをこねくり回したり探偵や推理に対して考えを巡らして遊ぶ「おもちゃ」として、本作は非常に面白いのではないだろうか。
これが二作目の作者であるけれど、どうもいつか凄まじい傑作を生みそうな感じのする作風という感じがする。我々凡人では思いつかないようなことをやっているのが、そう思わせるのかもしれない。

できれば本作の上笠丞とヤオ・フーリンが登場するという『恋と禁忌の述語論理』もいつか読んでみたい。


さて、麻耶さんの帯もなかなか洒落ているけれど、僕は「ただの奇跡」の中にアンチミステリ的な試みがあるのは確かじゃないかなと思う。

探偵へのアンチテーゼ。ホームズへの緩やかな批判にも繋がるという「可能性を考慮する」ならば(笑)、これは確かにアンチミステリなのかもしれない。

 


最後にちょっとだけ言わせて。

ドウニ器用すぎだろ!

 

聖女の毒杯 その可能性はすでに考えた (講談社ノベルス)

聖女の毒杯 その可能性はすでに考えた (講談社ノベルス)

 

 

恋と禁忌の述語論理 (講談社ノベルス)

恋と禁忌の述語論理 (講談社ノベルス)

 

 

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